印章関連の歴史資料

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印章関連の歴史資料

甲府城主松平甲斐守吉里の花押

山梨郷土研究会々員 小島 勇

吉里は、甲府藩主柳沢吉保の長子で、初代を綱千代、のち安貞ついで兵衛安暉といった。元禄十四年(一七〇一)、将軍綱吉から松平のせいを賜り、松平伊勢守吉里と名乗った。父吉保の隠居により家督を継ぎ、甲府藩主となり甲斐守に任ぜられ、宝永七年(一七一〇)五月甲府城へ入城した。江戸期に入り初の領主入城で交付の町は大いににぎわったといわれている。
吉里は大いに民政に腕をふるい穂坂せぎ堰の開削、峡東地方の検地を実施。養蚕・ブドウの生産を奨励し、その仁政は甲斐の領民にしたわれ、名君とうたわれた。
享保九年(一七二四)三月、吉里が大和郡山十五万石に転封になると、見送る領民は後を絶たなかったと、「甲陽柳秘録」などにみえる。吉里は和歌・俳句・絵画などにも通じその遺作は多い。吉里の転封先、奈良県大和郡山市と、甲府市の間には近年、有効「姉妹都市」が結ばれている。
つぎの資料は、吉里の甲府在任期(一七一〇~一七二四)に父吉保の菩提所、塩山市の恵美林寺にあてた「松茸贈給」謝礼の書状で、本文は裕筆が書き、吉里の署名・花押は自署と思われる。花押の大きさは、横七九㍉、縦三六㍉で、輪郭だけを刻みこんだ花押印を押し、その中を墨で塗りつぶした花押印を使ったもので、その印圧を感じさせるあざやかな花押である。なお県内での吉里花押入り文書の紹介はこれがはじめてである。

芳墨令恙誦候」弥無異条珎重之」御事候猶又境内之」松茸贈給之過当」之至候不具済々」
                松平甲斐守
    九月廿日           吉里(花押)
    恵林寺
               (甲府市・小島勇蔵)

関所と通行と判鑑

関所は古くから水陸の交通や国境に設けられ、通行者の検察や関銭などの税を徴収した。
甲斐国では、武田氏時代、古くからの遺制を踏襲し、国内の要所二十余ヵ所に塞門を儲け要路の警護とし(『山梨県史』・第一巻)、それが江戸時代「口留番所」といわれる小規模の関所だと伝えられているらしい。
口留番所 甲斐国の口留番所は、『甲州文庫史料』の「享保九年松平甲斐守三郡引綱目録」に、三郡の口留番所二十三ヵ所として次のとおり記録している。
山梨県栗原筋 鶴瀬・荻原・川浦。東八代郡・上芦川。八代郡 古関・本栖。東河内 十島。巨摩郡逸見 根子屋・漆川。巨摩郡 武川・山口。西郡筋 鰍沢。 同西河内 万沢。同逸見 大井森・小淵沢・子荒間・小尾・上笹尾。八代郡西郡筋 黒沢。逸見 長沢・江草馬場・岩下・山家。是?下後に分入 白井沢・穴平外。都留郡ミツ有、諏訪・山中・白丸。『甲斐国志』は「四郡ノ口留番所二十四所」としながら二十三ヵ所をあげている。(略)
これらの口留番所は中世的関所の後進トモ言われているが、中世の関とことなり、旅行者は、財政的負担はなかったものの厳重な取締規定は交通発展の障害となった。しかし徳川幕府三百年の経営維持に役立ち、この間大きな動乱もみられなかったことは、関所の力大であったといえよう。明治維新となったどう二年(一八六九)、これらの番所はすべて廃止された。
関所のおきて 『徳川実紀』の天和二年(一六八二)五月の条に、下総(千葉県)関宿に建てられた高札の文書が記されている。それによると関所の前を通る際は笠・頭巾などのかぶりものは脱ぐように、かごなどの通行者は扉を開くこと。女は番人の指示にしたがい、人見女(改め婆)に細かく調べさせること。公家・諸大名などの通行は、沙汰あるものについては例外が認められた。この「定」によると関所は朝六時にあけ、暮れ六つ(六時)の鐘が鳴ったら最後、木戸は固く閉ざされ親の死に目に会うこともできなかったといわれている。
上九一色村古関番所に例をとると、鉄砲の出入りは代官の証文によって通し、甲府府中からのでおんな出女は、甲府勤番支配の証文で、それ以外の女は代官の証文がないと通行させなかった。
通行手形と判鑑 関所を通行するためには人、貨物を問わず、何人たりとも「証文」がないと通行はできなかった。その証文のことを「通行手形」といった。「入鉄砲と出女」は有名で、武器と女性は厳重な取調べをうけた。
武器(入鉄砲)は、江戸防衛のための警戒と、「出女」は江戸になかば人質のかたちで藩邸におかれた諸大名夫人の帰国をおそれ、女の調べが厳重になったともいわれている。
次の資料は、「甲州文庫」所収のもので、女手形の印鑑の下付願いである。
差上申女手形之事
 一女弐人従甲府府中下一条町、郡内都留郡初狩宿徳右衛門方江差遣申候、鶴瀬関所無相違罷通候様、御手半奉願上候、右者下一条町兵衛母、妻ニ御座候、若此女に付以来六ヶ敷儀出来仕候ハゝ、加判之者申被仕候、為後日証文差上申所仍而如件
文政七申年十月
    下一条町願人久兵衛○印(略)
内容は、甲府市下一条町の女二人が所用のため郡内初狩の徳右衛門方へ出向くので、鶴瀬の関所を間違いなくと押してほしいので、手形に御手判(印鑑)を願い上げたい、と甲府勤番支配酒井大隅守へ願い出たもので、もし女二人に不都合なことが出た場合、出願人の五人組、名主などが責任をもって、その申し開きをします。というもので、支配者の手形印鑑一つを受けるため、むずかしい手続きをとってようやく手形の発行となったのである。「印鑑」の重要性を知る貴重な史料である。
判鑑 関所通行にあたっては、これらの手形によって役人の改めを受けるのであるが、通行手形に押された印鑑と同じものは、あらかじめ関所に登録されていた。それを「判鑑」(はんかがみ)といい、関所に保管されていて、通行人持参の手形に押されていた印鑑と照合された。
写真の印鑑二通は、古関口留番所のもので、上九一色村土橋力家所蔵の、甲府勤番支配の判鑑である。
松平相模守は「信寅」というが(『甲州文庫史料』)、印鑑の文字は「原寅」とあり黒印である。
同氏は文政二年(一八一九)十一月八日から甲府城に在番し、同六年四月二十四日没した。
戸田但馬守は文久三年(一八六三)十二月二十二日から元治元年(一八六四)十月までの甲府城在番で、印鑑名は「戸田役所」とあり、これも黒印である。
以上のように関所の通行には厳重な印鑑(手形)チェックが行われた。

甲府藩の公印

江戸幕府の老中柳沢吉保は、五代目将軍綱吉の側近として活躍した。通称を十三郎といい、のち主税、弥太郎。実名を房安・佳忠・信元・保明といった。元禄十四年(一七〇一)十一月、将軍綱吉の片いみなの「吉」と松平の姓を賜り、松平吉保と改めた。
吉保は、綱吉の愛願をうけ異例の出世をとげた。元禄十一年(一六九八)、幕臣としては最高位の大老格に栄進した。宝永元年(一七〇四)、甲府中納言徳川綱豊が、将軍綱吉の嗣子となり、翌二年三月、吉保は甲斐十五万石の甲府城主(公布藩主)となった。
宝永六年(一七〇九)、綱吉の死とともに官を辞し江戸巣鴨六義園に隠居、家督を吉里にゆずり、五十七歳で没した。
領国甲斐では、甲府城の修築整備、商品生産の向上につとめ、養蚕、ブドウ、タバコ、木綿、和紙などの生産が急激に高まった。
つぎの史料は、柳沢吉保・同吉里父子の甲府在任中に使われた公印で、宝永二年(一七〇五)から享保九年(一七二四)までの核町村(旧村々)の年貢割付状・年貢皆済目録に捺印されている。この印鑑の印材などは不明であるが、押されている印判はいずれも黒印で大きさは直径四十二ミリの丸印である。

江戸期の代官印と百姓印

江戸幕府は、直轄領(天領)を支配するため、勘定奉行の管轄下に郡代や代官を置いた。甲州は、享保九年(一七二四)以来、甲府御役所・上飯田・石和・谷村御役所、のちに田安御陣屋・一ツ橋御陣屋・市川御役所が領内に置かれた。
代官は、通常江戸の屋敷にいるのが普通で、任地の役所・陣屋にはその手代らが勤務していた。
代官の任務は大きくち地かた方・くじ公事方に分けられ、前者は耕地の調査(検地)、年貢の割り付け、年貢徴収・年貢介在目録の発行・宗門人別帳・五人組帳などの検査、堤・川・橋・道などの普請、天災・飢餓の救済。後者は管下の警察・民事訴訟・軽犯罪の裁判と諸兄などが主任務であった。
次の史料は代官の署名と印鑑で、年貢(租税)の割付状と、年貢の皆済目録(領収証)に押されたもので、いずれも黒印が押されている。(市川御役所の代官印(個人)である。)
百姓は、士・農・工・商の四民制度の社会組織の一つで、とくに「士は農を治め、農は士を養う」ことを建前とし、百章は土地と不可分の一体として自由を拘束され、封建農奴としての性格規定をうけた。
かれらは「村役人惚百姓総体」として、村を構成し、年貢公課を連帯で負担し、住居・職業の自由を奪われた。名主(庄屋)・組頭・(長百姓)百姓代を村方三役とし、一般百姓を平百姓・小前とよび、このなかにも独立自営の本百姓と、名子・水呑などの隸農の階級に分かれていた。これらの名主以下小前百姓に至るまで印鑑を持ち、役所への嘆願書や諸事御請書などに押された。いずれも朱肉は使われず黒印であり、印のことをいんぎょう印形といい、「小前連印」、「御請印形」などの文書が各所に残されている。

甲府県・山梨県の公印

江戸時代の山梨県は、甲斐の国とよばれていた。それが明治のご一新で、甲斐府が置かれ、明治二年(一八六九)七月、甲斐府は「甲府県」に改められ、滋野井公寿が知事に就任した。
明治四年十一月二十日、甲府県を山梨県に改め土肥実匡が県令となった。次の印鑑は、甲府県から山梨県への過渡期のもので、甲府県の印は四五㍉角、書体は篆書である。。山梨県印は四六㍉角で、同書体である。
両印鑑は、いずれも年貢割付状・同皆済目録に捺印されてたもので、朱印(公印)として用いられている。

山梨県産水晶の採掘と加工

水晶研磨工芸がみたけ御嶽の奥に発祥し、それが県都甲府へ移り、山梨の工芸美術を代表する産業に発展。やがて世界的にその名を広めるようになったその過程をたどってみたいと思う。
幸いその資料として、昭和十一年(一九三六)、山梨県師範学校・山梨県女子師範学校が、「郷土研究を教育に応用し、その業績を収めるため」を目的として企画した、研究論文集「」山梨県綜合郷土研究』が刊行された。その中に、「水晶と宝玉及び印伝・硯の加工業」と題する貴重な論考が掲載されている。ここではこの論考を要約し、水晶の発祥から研磨工芸技術発展の過程をたどり、歴史資料としたい。
水晶原石供給の変遷
県産水晶の原石は、『甲斐国志』には水晶はむかし「水精」と書いたとある。甲斐の水晶は竹森(塩山市竹森)を除いては、金峰山を主峰とするいわゆる関東山地のうちに集まっている。この山から発する水系は、東に荒川と(笛吹川)多摩カ川、西に千曲と釜無川、さては天下の奇景をもって知られる昇仙峡を刻んで南下する富士川の源をなす。その清冽さは、まさに水晶からにじみ出た「水の精」を思わせるものである。
金峰山の水晶は天正三年(一五七五)に発見されたといわれ、また、御神体が水晶の原石であるという玉諸神社は一千年のむかし(天徳年間)に祀られたというので、竹森(塩山市)の水晶コウザンの発見はいよいよ持って古いことであろう。当時の人々は水晶を珍奇なものとして晶簇のままで愛でたのであろう。
徳川時代 この時代には自然崩壊による露出水晶が幕府から払い下げられたが、その例としてニ、三を記すと、文永十三年(一八三〇)、黒平村(甲府市)の向山水晶が、永一貫5百文で西保中村(牧丘町)の与右衛門に払いさげられ、弘化三年には永十貫文で再び同書の水晶が売り渡された。
また、増富村比志(須玉町)のおしだし押出抗の水晶は、文久二年(一八六二)に払いさげられ御獄から招いた職工に加工され、甲府に売り出された。文政四年(一八二一)、西保村倉沢(牧丘町)に出た水晶は、ふか深わや輪(柳町玉泉堂・甲府市中央四丁目)の五代目甚兵衛に払いさげられ、江戸表へ売られて水晶県外移出のさきがけとなった。
安政六年(一八五九)六月、神奈川港が開港され、水晶原石も外国人と取引されるようになった。若尾逸平兄弟は、これに目をつけわずか十数日間の取引で(水晶屑)千数百円の利を得たのもこの年の十二月であった。若尾兄弟はこれが縁となり、その後の外人から水晶玉やトツコ(晶蔟)を注文され、これを売り込んだ。その加工の多くは深輪屋(当時三日町)であった。
明治初期 明治維新の鉱山法によって、水晶の発掘が自由になると、鉱夫らは、この業の有利性・確実性を資本家に説いたところ、御獄の神官の多くはこれに投資した。したがって水晶採掘はにわかに活況を呈した。しかしその結果は「水晶を掘れば必ず破産する」という言葉が、明治十年ごろに出はじめた。
一方、玉宮村竹森(塩山市)の水晶鉱山は明治六年(一八七三)、名取長五郎が採掘を創始してから年に八貫目入俵百俵(三・二㌧)内外の豊産で、一俵三円~最高五十円までに売れた。これを聞いた大阪の古関円次郎は、その仲買をして外国へ輸出、一躍百万の富を得たという。
明治中期 村民の農閑期利用の労力奉仕が成功し、村々の水晶採掘事業が復興し、明治二十年(一八八七)頃を中心に水晶その他の鉱産物の最盛期となった。その調査例の一部を挙げると増富村八幡甲・乙は、御獄の三浦某と上手村(明野村)の深沢某とで協同発掘をはじめた。甲・乙ともに莫大な産出量であったが、たまたま八幡山乙坑内に希有の良質大結晶が簇出したので、両者間でその権利争いが起こった。それより世人はこの抗を論抗と名づけたという。
明治三十九年(一九〇六)、甲府市に開かれた一府九県連合共進会に出品された器量百五十貫(約六百㌔)の「みづがき」や、山梨県師範学校所蔵(百瀬康吉寄贈)の大水晶もともに論抗産であった。また、御獄の永田某によって五丈五尺(十六・五㍍)掘り下げられ、されに増富村津金(須玉町)某によって三十間余(約六〇㍍)の花崗岩が切れ破られ、非常な豊産をみた。
これら良質な水晶原石は、玉石用・印材用・雑石用の三種に選別され、甲府の囲う業者に引き取られた。
明治後期以後 明治三十年(一八九七)以後の大水害は、土石採取名義の水晶採掘業に大打撃を与えた。すなわち河筋の水晶抗の採掘は禁止され、さらに保安林に指定されるなどしてかなりの束縛を受け、従って払い下げ料金は増大し、抗口の下方には砂防設備を施す規定となった。これでは業者も採算がとれず、廃業するものが続出してほとんどが休抗状態となった。しかし大正天皇が東宮時代に行啓のおり、増富から献上した大トツコは、明治四十年(一九〇七)頃、押出抗で掘られた逸品であった。
原石の売買は、明治二十二、三年頃からは、三人ばかりの仲買人が水晶抗をめぐって買い集め、甲府へ出すようになった。
以上のように、明治中期はその乱掘にまかせ、末期には治山治水の県是に束縛され、やがて輸入原石に圧倒されたわが領土の水晶抗は、いたずらに遺宝を包蔵したまま、大正八年(一九一九)、休抗の止むなきに至った。
現状 (昭和十一年・一九三六) 水晶の標本やトツコは、ブラジル原石中には求められないので、現在小規模の採掘を行いそれに応じている。竹森鉱山では、一日五銭の入山料をとって自由に水晶を拾わせた。
この標本用の小水晶は、昭和十年(一九三五)頃から、東京、大阪その他の方面へ出回った。また、御獄からのトツコは年産わずかに数百円にすぎないが、甲府駅頭で観光客の目を引いた。

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