ハンコの町六郷町(河内地方)

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ハンコの町六郷町(河内地方)

筆者は六郷町出身であるので六郷のハンコについて重複する面もあるが記述することとした。
ハンコの故郷六郷町は、全国に誇れる町であり、印章の生産量は全国の五十パーセント。県内の八十%を占めるといっても過言ではない。日本一のハンコの町として知れわたり、また理解される街の基盤産業である。
六郷町は、農業と養蚕業の町であったが、足袋製造は寛政元年(一七八九)に望月七三郎(岩間村)によって足袋製造は始められたということである(六郷町誌)。これは岩間足袋と通称されているが、岩間村、?籠沢・宮原・落居・楠甫・鴨狩津向村(現六郷町)と久那土村(現下部町)において生産された足袋の総称であるその後六ヵ村では足袋製産に八割方が専従していたという。
明治二十七年八月、わが国は当時強大な清国に宣戦布告した。この戦いに岩間足袋は陸軍御用を承り、兵隊はすべてわらじ草鞋であったため、それゆえに足袋が必要であり、軍に供出を命じられこれによって全国に知れわたり各地より注文が多くなり、それ以上に足袋を製造する家が多くなったという。民謡にも歌われ…「岩間の宿を見てくりれ、白足袋、紺足袋軒を並べ」といいその盛況さをうかがうことができるのである。
この足袋は、明治末期まで製造は続いていたが、明治三十五年ごろに靴下の普及や県外の大資本によるたびの製造の機械化によるコストダウンの大量生産品の影響を受け下向の一途をたどり、大正八・九年にはほとんど廃業となった。
明治中期、二十五年前後に足袋産業の衰退に併い、当時甲府で盛んになろうとする水晶印の販売に目を向け、印章を販売するものが六郷町を中心として河内地方に増えていった。印章の販売が出現すると篆刻業も盛んとなり、大正七・八年には一大隆盛期を迎えることになった。
六郷町の印章取引に関する記録で最も古いとされている明治二十年、鴨狩津向村(六郷町)の河西万次郎が、京都市香玉堂(吹田八郎商店・玉屋)と水晶印などの取引をした資料が『水晶宝飾史』に掲載されている。それは次の通りである。
三月十九日 一、壱円廿銭 水晶印都合八本、万次郎は京都の香玉堂ほか、京都地方はもとより、小田原・静岡・浜松・名古屋・四日市・亀山津・宇治山田・伊賀上野・彦根・大津・大阪・神戸・善通寺・丸亀などに出張して水晶印材などの取引をしている。篆刻の大家安達畴邨とも親交があり、篆刻を依頼していた。
明治中期以降・岩間足袋の衰退に逆行し新しい時代の目玉商品として印章販売の行商人へと急テンポに移行していった。
岩間村(六郷町)の遠藤常太郎も水晶印販売の先駆者であり、東北、北海道まで水晶印の販売の旅を続けた。楠甫村(六郷町)の望月政五郎も先駆者の一人として有名であり、各種の記録を残している(『六郷町誌』)。
明治の末期より大正の初期にかけて、河内地方(西八代部、南巨摩郡)に印章販売業者(行商)が全国を舞台に拡大し、印章を売りさばいていった。この時代の衣類は着物であり、草鞋ばき、時には下駄ばきで行商に出たという。印章のほか数珠、指輪、甲州印伝袋物など高価で手軽な商品を地元や甲府の問屋、工場などから仕入れ、補充もすべて旅先から郵便で取引先に注文して取り寄せる方法をとった。
販売の方法も一部をのぞいて農閑期の現金収入の副業的な注文取りが手であったが、やがて専業による外交販売にかわって事業化してゆくのである。盆と暮れの二度の帰郷で一年中全国を巡っている者や、一ヶ月くらいを当然として出張販売するものが多かったのである。売子(社員)の十数名を連れて貸店舗を求め、村々で幟などを建て一週間くらい開業し、またその町の近村などに新聞折込などして、甲州名産普及品販売の広告をし、町から町へと一年中の販売をして歩いた者もいたそうである。商品の補充・発注も前述したように問屋、工場とは密なる連繋がとられていたようであり、六郷町地場産業会館の展示室にはこれらの資料が見られ、諸官庁・学校・会社・個人をとわずに取引された諸文書が多く展示されている。これらは「印章を作るより、まず販売する」から始まった六郷町の印章生産の特徴である。
水晶加工業者は、詳しい記録は不明であるが明治末期になり六郷町の印章販売が盛んになるに従って、甲府方面より水晶加工業者や、篆刻技術者が河内方面へ移動したものと思われる。篆刻家も六郷から数多く輩出している。別述のように確認することができる。印材工場も大正十二年の記録によると、ほとんどが甲府中心の産業であったが、印章販売の増大にあわせて河内地方へ進出したようである。宝玉堂 篠原正広・芙蓉堂 渡辺 武・勝手堂 鮎川勝市・甲富堂 笠井金作・南陽堂・土橋水晶店などがある。
印章関連の業者が増加した理由の一つとして、印章の篆刻業よりまず販売から発展したのが峡南地方(六郷町中心)の印章業の経緯であると見るのが妥当であり、特徴ともいえるが、明治政権の官僚機構制度が印章ブームを引き起こし、六郷町はこの波に乗ったことが要因で日本の印章王国となった因ともいえるのである。
しかし平成二年の象牙輸入禁止(国際取引条約)や不景気・機械化等の影響により六号も需要減のため不況脱出のアイデアを町と業者が一体となって考案中であるという。その第一号がアイディアとして新しい印材造り、オノオレカンバ(斧折れ樺)材の使用が発案された。
平成二年よりの印材とその適合性を研究史六郷町よりの補助金の下付もあり「六郷町印章業振興協議会」が主体となった現在印材の製造に手がけ六郷町の印章のと浮く散在として全国へ販売するべく準備中であるようである。
次の記事は、オノオレカンバ材についての山梨日日新聞の記録である。

ハンコの町新印材で再建(六郷)
堅くて光沢 オノオレカンバ
「象牙規制も大丈夫」
西八代郡六郷町の印章業振興協議会(笠井尚会長)が、身延町ふるさと工芸品などの協力で開発していた新素材の印鑑の試作品ができ上がった。南アルプスに自生するオノオレカンバ(斧折れ樺)を使ったもので堅くて弾力性に優れ、関係者から「印材に適切」と折り紙が付いた。同町は商業者の八割が印章業を営む全国有数のハンコの町。ワシントン条約で象牙(ぞうげ)の輸出入が禁止されてから千三打かが大幅に落ち込んでいたが、復興の主力製品にしていく。協議会は「輸入に頼らず、県内から安定した価格で仕入れることができるメリットも大きい。積極的にPRしていく」と意気込んでいる。
南アルプス一帯に自生
試作品に太鼓判
オノオレカンバは、本州中部以北に分布するカバノキ科の落葉樹。県内では南巨摩郡早川町内の県有林に多く自生している。材質は水に入れて沈むほどの高い比重と名前にふさわしい高度が特徴。「象牙とともに主力印材だった柘植よりも硬度、耐久性、つやがある外観の美しさの点で勝る」(笠井会長)と太鼓判を押している。
新素材のハンコは、象牙と同様に実印や銀行員として製作。平成五年の販売を予定している。「高品質の割には安く仕上がる。全生産量の半分程度を占めるよう努力していく」(協議会)という。販売価格は象牙の三分の一程度の五、六千円を主流にしていきたい意向だ。六郷町内には、百三十軒、約三百人の印章業者がいる。象牙は町内の生産高の約五十%を占めていたが、一九八九年十月のワシントン条約締結、いつかのワシントン条約京都会議では禁止の継続が決まった。条約の影響で品不足となり、生産高が激減。「売り上げが五-六割程度に落ち込んでしまった」という業者が多い。 また、ツゲも数年前から枯渇寸前で、国内産の本ツゲ、タイ産のシャムツゲともに手に入らない状態となっている。協議会は「新素材製品の開発が業績向上の最大課題」として、三年前から研究を始めた。消費者の本物志向にこたえていくため、天然素材であることを前提に取り組んだ。羊の角、サルスベリ、桜などを試したが、品質に何があった。試行錯誤の末、前会長の小林成利さん(七一)が、すずりのふたに使われていたオノオレカンバに着目。平成二年十二月、実際にハンコを作り、素材として適していることを確認した。
木であるため乾燥させてから加工する必要がある。協議会は身延町ふるさと工芸館や県林業技術センターの協力を得て実験を繰り返し、二月二十五日に試作品が加工業者から協会に届いた。さらに県工業技術センターで最適な乾燥度などを調べそれを基に製品化する。
 笠井会長は「いずれは町内に印材工場を建設し、六郷のハンコは材料加工から彫刻まで一貫して町内で出来るような体制を整えたい」と話している。

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