記念品・贈答品への進出

目次へ戻る

<前のページ次のページ>

記念品・贈答品への進出

昭和二十三年になると卒業記念印として印鑑の販売が盛んになり、次々と成人記念用・結婚記念・誕生記念・創立記念・就職記念用品などとして、種々のお祝い事として、販路を拡大することにより益々印章業界は活発となり発展していった。戦前の記録は残っていないので明らかでないが、卒業記念印は一悲憐の中より山梨県で販売されていたことが実証されたのである。平成四年一月沖縄県の西原町の道路改修工事の現場で旧軍人と見られる遺骨四体が発見され、その中の一人の遺品の中に旧韮崎中学校で昭和十六年の卒業生に送られた水晶印があった。それは三・二センチ丈太さ一・一センチで田中の姓が刻され、側面に韮崎中学校第十四回卒業生と刻字され、印鑑がサメ皮のケースに入っていたのが発見された。早くも戦前には卒業記念として水晶の印鑑が発売されていたことが実証される。(平成五年三月一日山梨日日新聞より)
戦後派前述の通りの販売方法の開拓により、なお外装用品の別珍張り桐箱・高級ベーク材など、外箱も豪華になり、印章ケース類も美麗化され、色彩も豊かになった。また牛皮製印袋、牛皮・蛇皮鶏足皮・トカゲ皮等のケースも県内で製造されるようになり、装飾もカラフルに顧客の需要を満たしている。
昨今は卒業記念印が主体となり、若干の成人記念因果発売されるのみであり、この部門を専門に販売する業者は三十社ほどであると考えられるが、盛んなじだいは戦後四十有余年で印章業界の最も大きな販売商品であったことと、全国へ「山梨の印章」を位置づける目玉商品であった。
これらの記念用・贈答用の印材は出来合認印の生産向上に大いに貢献し、その生産力とあいまって昭和二十五年頃からはセル材の印材から、ラクト材の印材に変わり、それが主力となった。黒水牛材の輸入量も増大し、この部門に高級材として取り扱うようになった。
一方山梨県特産の水晶材も研磨業者の復活に併せて最高級の卒業印として多量に販売され、いよいよ山梨の水晶材も需要の拡大が見込まれたと思われる頃、装身用具に生産された硝子材を印材に加工して新水晶の名称で小判型と切子形(側面多カット、首の部分に穴をあけてリボンを付けた)印材が登場し全国に記念印として販売されるようになった。
ラクト材には側面に卒業記念・成人記念・校章などを打刻式に金文字を押したもの、螢の模様、梅の模様を象徴したものが販売された。また、水晶印材には、松上のつるなどを彫刻し付加価値をよりつけて販売され、爆発的に大学から小学校にいたるまで販路を拡大していった。これらの中で特筆すべきは、硝子印材の販売問題であった。一部の取扱に業者が硝子を山梨特産の新水晶として販売したことである。新推奨という名称も不可解であるが、地方の業者からこれに対する問い合わせが多くなり、行政の問題として、別述する「印章法案」の項の通り、「山梨県印章業保護奨励に関する条例案」が山梨県議会への提出となったのである。
昭和二十五年、これら一連の問題は、のちに全国印章業組合連合会の「印章法案制定」運動の起爆剤ともなった。

昭和三十年前記に雅この硝子印材問題は業界から消えていったのであるが、山梨の特産である水晶印章業界としては、このような問題があったことを忘却してはならないのである。
その後はこれらの部門にも、オランダ水牛や象牙印材と高級な印材が取り入れられ日本経済の発展とともに利用され、売上高は増大していった。この拡大により印章王国山梨の名声をより以上に知らしめることとなり、通信販売業者の増加と、訪問販売システムの二面方式は全国に浸透し、生成期には年間三百万本を消化し、過去の篆刻の山梨から、生産販売の山梨へと変革し、さいど印章王国山梨を全国へ知らしめたのである。
昨今の学校卒業記念印は、出生率の低下・卒業記念印として価値観の重いなどが重なり、休息に延焼しているのである。専門業者も減少の一途にあり、多角経営に移行しているのが現状である。
「補足」
昭和十三年の記録によると、卒業記念印(水晶)は、彫刻付きの小売標準価格の設定をしたという。当時の組合規約の中にこれらのことを定めた項目があったと記されている。

目次へ戻る

<前のページ次のページ>