既製出来合認印

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既製出来合認印

戦後の必需品の一つにハンコがあった。それが出来合認印である。統制経済の時代であり、配給制度の中で食料品、衣類、日用雑貨、その他を求める場合にハンコが必要とされたのである。
既製出来合認印はその主役であり、戦前・戦後にわたりハンコは生活経済の主軸必需品であったのである。
戦後の印材は椿材が主たる素材であったが、桑の木や梨の木などが使用された。つげ柘植材も若干は生産されていたのであるが、印章業界はその柘植によって復活するのである。国内の柘植材は御蔵島(伊豆七島)と、薩摩地方より、戦後二、三年後には順調に市場に出回りはじめたのである。 昭和二十二年頃はわが国の経済が進展し、世界の貿易が盛んになるに伴い、セルロイド材(大日本セルロイド(株))、ラクト材(富士化学工業(株))と大手科学会社も生産を増してこれからの科学素材も供給されるようになり、出来合認印の材料は、多種類となった。
戦後このようにして化学製品の印材を山梨県の業者に供給したのは大阪府松原市の八丈製作所(昭和二十年創業)であった。そしてセル材の八十%の需要を満たしていた。山梨県下では、昭和二十三年に丸山製作所(甲府市丸の内二丁目・旧水門町)がセル材の製造に着手し、セル印材メーカーの第一号となった。これは甲府市下飯田一丁目の丸山製作所(株)の前身である。
昭和二十三年にはラクト材(脱脂牛乳)が主力となり、昭和二十五年ごろからは出来合認印の印材は柘植材とラクト材の二種類が主力材となっていたが、昭和四十八年頃からは黒檀材の出来合もこれに参画して現在はこの三種類が主力材となっている。
最盛期には県内では丸山製作所、コーケン、東洋産業、依田製印所、日本スタニック、樋口印章店、まつき印章店、卒記(株)等々の各社総合生産量は二千三百万本で、月産約二百万本が生産されたといわれている。
これらの増産に拍車をかけた要員の中に、戦後直ちに販路のせた卒業記念印、成人記念印等の販売の拡大が大きく寄与したといえるのである。
販売が拡大する中で、生産部門の研究も盛んに行われていたのは当然である、第一に考案されたのは、旧水門町の赤池印章店の赤池保が、形押しによる印刻方式を考え、鉛で印面に姓名を鋳造し、やわらかい材(木)の印面へ圧力を加えて字の部分を突出させる方法を考案した。しかしこれは不採用となったが業界では多量生産方法の第一号として関心を寄せた。
次に考案されたのがパンダグラフ方式で成功し、それが多軸方式と発展していくのであった。これは元版「姓」を鉛で鋳造し、使用材料の印面の割合を三対一として、鋳造した文字をなでると同一運動を起こし、セットした印材を彫刻針がなぞり掘る方式である。これは勿論電動であった。これがやがて昭和四十二年の多軸「六本軸」方式の発明となり、二十秒くらいで六本同一文字が彫刻できるようになった。さらにそれに改良を加え、昭和四十八年には十本彫りの他事茎が稼動するまでになったのである。需要に対応する生産業者の研究はますます進歩し、現在では五十本多軸も稼動しているという。 出来合認印の生産高は、山梨県が全国の九十パーセントを占めているといっても過言ではない。
その市場は、また、印章店はもとより、文具店、薬局、キヨスク、スーパー、ホームセンター、その取扱店が拡大され、それらの全国の在庫の量は増大していった。
昭和六十年ごろより出生率の低下と、学童の激減もあり、卒業記念印の市場は年々急速に低迷する恐れがあり、成人者の微減とあいまって、将来は一層厳しいものとされている。現在月産百二十万本くらいと推定されるが、出来合印の分類を参考として記述する。
(一)印材 黒水牛、柘植、ラクト材、アセチ材、黒檀
(二) 字体、古印体、隷書体、楷書体、行書体、印相体、一部篆書体
(三)印面 小判型、丸型一〇ミリ、一〇・五ミリ、一二ミリ、一五ミリ「主体は小判と一〇ミリ丸」
(四)訂正印 柘植、黒水牛
(五)コケシ型出来合認印もある ラクト材
以上の様式が主たるものであり、それらに浸透印式の出来合認印が各社メーカーより市販されている。
出来合認印は、十二月から三月にかけて意外に良く売れるという。店の立地条件や売り方にもよるが、一日に百本という店舗も都会では珍しくない。そのために四部丸柘植を筆頭に、別記のように新製品が続いたのであるが、メーカー関係者にいわせると、印章業店ルートは減少気味であり、最盛期には月産二百万本といわれる認印はどこへ流出しているのであろうか、業界としてもじっくり考え直してみたいテーマの一つである。
出来合認印セットは実用品であるが、印章専門の看板みたいなもので、これがたくさんある所が専門店としての強みであることには間違いないようである。

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