水晶山開発の奨励

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水晶山開発の奨励

明治二年(一八六九)に新政府は、わが国の近代化を進めるにあたり、積極的に殖産興業に力を入れた。第一に地下資源の開発に目をむけることになり、同年二月、民間に鉱山開発を許可し試掘と売買を奨励した。水晶は幕末まで原石の採掘は許されず、かぎられた市場に出る製品は僅少であったが、新政府は試掘にあたって手当金の貸付までするようになった。
(一)御入用ノ儀ハ千両ニテモ弐千両ニテモ申出候ハハ御下ヶ相成候事
水晶山を開発するための資金を必要とするならば、申し出次第、千両でも二千両でもぐに下げ渡すという新政府の方針がうかがわれ、水晶抗之開発を刺激し、促進したことは言うまでもない。
明治三年には白須・大ヶ原村(白州町)横手村(白州町駒城)などから甲斐駒ケ岳の試掘の跡請があり、丹波山村(北都留郡)からも村内の泉水渓というところに水晶抗が見えたといい、新規百日間の試掘の願いが出されている。(『山梨県史』)
『甲斐国志』などに記載されている県内の水晶産地は前記の通りであるが、明治後も繁栄した山は金峰山周辺の水晶峠・倉沢山・向山・押出山・竹森山などであった。このほかに乙女鉱山(牧丘町)、八幡山(須玉町)、川端下(長野県・川上村)、市ノ瀬山(塩山市)、刑部平(同)、泉水渓(丹波山村)、船越(同)、鳳凰山麓獅子ノ木(武川)、駒ヶ岳(白州町)などの産地の名も上げられている。
しかし丹波山村では、明治三年(一八七〇)十二月から同四年三月まで試掘し、二回目を同年五月から八月まで。同四年十月から翌年正月まで三月にわたり較百日間ずつ延長承認で試掘したがついに水晶の生産は十分得ることなく終わっている。次々と大金を投入し、水晶山に対する投資は依然として盛んであったと『水晶宝飾史』に記されているが新規採掘は思うような成果を上げられなかったといわれている。
金峰山をめぐる各水晶鉱山の採掘最盛期には、御岳金桜神社の社領の住民たちは、米と味噌を背負って鉱山に分け入り、食料の続く限り幾日でも水晶の鉱筋を探し回った。幸いに一かま掘り当てれば連絡によって御岳や甲府から水晶の仲買人が集まり、市が立つほどで、これを目当てに臨時の飲食店や甲府から芸妓までが山に登ってきて大騒ぎの御岳にかわったといわれている。
乙女鉱山は、東山梨郡西保町(牧丘町)字北奥仙丈字倉沢。西山梨郡千代田村(甲府市)、および中巨摩郡宮本村黒平(甲府市)にわたる最も広大な水晶鉱山で、古来白色透明な良質の水晶を多く産出した鉱山であった。ことに透明な傾軸式双晶(写真参照)は、世界無比のものとして海外からも注目された。珍しい良品質の原石が産出されたので往来もはげしく奥山にしてはにぎわいをみせたという。
山梨県以外の国内水晶原石の主産地
(1)滋賀県の田の上山坑、苗木抗より煙水晶
(2)宮城県の小原抗より紫水晶
(3)鳥取県の藤屋抗より紫水晶
(4)福岡県の合戸抗より紅水晶
(5)秋田県の荒川鉱山より冠水晶
(6)新潟県の相川鉱山より水入水晶
等が主な産地として知られるところであるが、いずれも明治四十二年(一九〇九)から大正六年(一九一七)ごろにはほとんど採石はなく約十五年くらいで掘りつくされたという。大正になって山梨県も外国産の水晶を輸入しその需要に当てるようになった。

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