印章の彫刻様式

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印章の彫刻様式

わが国の印章彫刻様式は、安土・桃山時代(天正五年~十四年・一五七七~一五八六)の約四百年前ポルトガル人が渡来し、鉄砲といっしょに印章篆刻技術も渡ってきたというのが定説である。
織田信長は全国より、版木職人、菓子形彫刻職人や印判職人など百人を京都に集め、ポルトガル人の講師の下に一ヵ年間の講習の結果、特別優秀な者三名を選び、これにさいじ細字の姓を与え、帯刀を許したのがわが国印章師の最も古い発祥であるという。
細字家は襲名で代々左平を名乗り初代は尾張の生まれであった前田利家と同郷だったので、利家が加賀藩主として天正十一年(一五八三)六月十四日に金沢城へ入城し、五年後の天正十六年(一五八七)三月左平は御用印判師として召し抱えられ、尾張町の現住所を賜り、現在の同地において印章店を経営する細字氏(金沢市尾張町二ノ九ノ二十二)白鶴堂がその十一代目である。
初代細字左平は京都で、四ヵ月を費やして、タガネで「つくばい」を彫刻した。それを前田利家に献上し、時代を経て水戸光圀が京都の龍安寺の中庭にすえられてある「つくばい」は、平面二尺五寸(約七五センチ)、高さ一尺五寸(約四五センチ)の丸形石材に楷書で、「吾唯足知」の四字を篆刻しているのが有名である。
中国の印章は角印であるが、西洋の印章は丸形と小判型である。わが国では両方の形を使用するようになり、この時代より角印、丸印、小判型と三種型になったのである。この時代は一般人には公印のみであったが、堺の商人にはハンコの使用が許されていたという。御朱印船の印は堺の商人が貿易の許可として使用していたものである。
江戸時代に徳川家康は、一般庶民にハンコの使用を布告している。これは「公禁令」であるが、実際には町民や百姓はハンコの使用は必要としなかったのである。一般には筆軸印(筆の軸に朱肉をつけて押す)などですませていたのであるが、元和年間(一六一五~二四)頃に社会経済の発展に伴い、百姓町人階級にも印章が流行するようになり、取引の証明と確認の意味において使用されるようになった。これが実印の始まりといわれている。しかし実際には名主、大家どまりで、訴訟などの場合も、名主、大家が羽織をつけてハンコの捺印をすることでことたりたといわれている。
江戸時代のハンコに対する川柳に、
○またハンコ大家しぶしぶ羽織を着
役所へ出向きハンコを押すときは必ず羽織をつけて立ち会ったのである。
○ハンコ屋は袴のうしろに質におき
格式の高い職業であった。前だけは袴をつけたように見せかけて判を彫っていた様子をうかがうことができる。
○ハンコ屋は刻ってやるぞと金を取り
○まんじゅうをもらって一判、倉がとび
ハンコは大切なものである。まんじゅう一つ頂いて、補償に押捺したばかりに倉を取られたのであろう。
古代より印章を押捺することは重大なことであった。印章の歴史を知り印章を大切にすることは自己の人格と信用を高めることになるのである。

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